競馬ファンの中には競馬の祭典「日本ダービー」が終わると、
一つの区切りみたいに感じる事が有るようですが、競走馬には当然ながらそんな事を感じている筈はありません。
厩舎関係者も同様だと思います。(ダービー関係者の中には居るかも知れませんが。)
「日本ダービー」等のクラシックは、3歳時にしかチャレンジ出来ませんが、
直ぐ翌週には3歳以上が参戦出来る「安田記念」という、やはりG1レースが開催されます。
距離は1,600mと余り長くはないですが、
約1分30秒という短い間に、ダービーとはまた違ったドラマも生まれて来ました。
その道のスペシャリストと言われる名馬も誕生していますが、
安田記念とはどんなレースなのか、またどんな馬たちがレースを盛り上げたのか、
改めて振り返っていきたいと思います。
安田記念とは?
『距離別レースと名前の由来』
本題に行く前に、触れておきたい事が有りますので少し脱線します。
競馬には競走馬の距離適性が、レース結果に大きく左右される事が有ります。
血統の問題も一因と思われますので、その馬の適性能力と性格を見極め、どう調教してどのレースに出走させるか。
その出走させたレースで好結果を残す様にする事が、厩舎及び調教師としての腕の見せ所だと思います。
人間にも同様な事が言えないでしょうか。
例えば陸上で、100m走、200m走を得意としてる人が、1,500m走や、まして10,000m走には出ませんよね。
筋肉の違いや、鍛え方や練習方法も異なるなどが理由も有り、最高のパフォーマンスを発揮出来る距離が有ると思います。
水泳やスピードスケートなども同様で、着順やタイムを争う競技には当てはまるのではないでしょうか。
これは練習で補えるものもあるでしょうが、生まれ持った才能とかが大きく影響するかも知れません。
競争馬もそういった要素により、どのレースを走らせるかが重要になるのです。
プラス右回りか左回りか、直線が長いか短いか、馬場状態や脚質も影響する事がありますね。
良馬場(晴れて馬場状態が良い)は得意だけど、重馬場(雨が降りぬかるむ馬場状態)は、のめる様で走らないとか、
東京競馬場は左回りで、最後の直線が長いから追い込み馬には有利だ、とかです。
様々な要素が絡み合ってその馬の適性と合えば、勝利する確率も格段に上がったりもします。
その様な事を色々考えて予想するのも、競馬の楽しみ方の一つではないでしょうか。
当然予想を当てたいと思っている人がほとんどだとも思います。
現在JRA(日本中央競馬会)主催のレース距離は、1,000mから3,600mまで有るのですが、
距離により「短距離」「中距離」「長距離」と、おおまかに3種類に分類されています。
※平地レースに限り、1,100m、1,900m、2,100m、2,700m~2,900m、
3,100m、3,300m、3,500mは有りません。
「短距離」:1,000m~1,600m
「中距離」:1,800m~2,200m
「長距離」:2,400m~3,600m
一般的に上記の3通りに分かれ、間の1,700m、2,300mのレースも有りますが、芝のG1レースは有りません。
全ての分類距離において「G1」レースは設置されていて、「安田記念」は短距離のG1レースに該当します。
メートル法採用国である日本では1,600mですが、
ヤード・ポンド法採用国の競馬発祥の地イギリスでは1マイル(注)と呼びます。
注):正確には1マイル=1,609.34mとなりますが、JRAでは端数は有りません。
安田記念とは別に、11月に京都競馬場で開催されるG1で「マイルチャンピオンシップ」というレースが有ります。
やはり距離1,600mなのでマイルという名が付くのですが、安田記念は春に行われるので、
タイトルの様に「上半期のマイル王決定戦」という名でも呼ばれているのです。
さて前置きが長くなりましたが、本題に戻りましょう。
「安田記念」は、JRA主催のG1レースで、東京競馬場にて芝コース、距離1,600mで行われます。
現在の出走条件は、3歳以上の牡馬、牝馬、外国産馬、外国馬、地方競馬所属馬が対象となり、
1996年から開催時期は「日本ダービー」の翌週に開催されるようになりました。
現在の優勝賞金は、1億1千万円です。
記念すべき第1回は1951年、4歳(現3歳)以上のハンディキャップ競争(※)として「安田賞」の名称で創設されました。
(もっと古い頃からかと思いましたが、戦後だったと知り少し驚きましたね)
競争名の「安田」は、明治、大正、昭和にまたがって競馬界に携わった、
JRAの初代理事長「安田伊左衛門」の名に由来します。
※ハンディキャップ競争:出走する競走馬が出来るだけ平等に勝てるよう「ハンディキャッパー」と呼ばれるJRA職員が、
適切な判断で「負担重量」を決定しレースを行う事です。
安田氏は競馬法制定や日本ダービー創設などに尽力し、多大な功績も残しました。
現在東京競馬場には、安田氏の功績を称えて「胸像」が建立されてもいます。
その安田氏が1958年に死去したため、その年より現名称「安田記念」に改称され現在に至ります。
距離や開催競馬場は当初の「東京競馬場1,600m」と変更はないのですが、
1984年にG1に格付けされた際、5歳(現4歳の古馬)以上の定量戦(※)に変更され、
開催時期も「オークス」の前に移設されていました。
※定量戦:レース毎に負担重量を決定する基準が設けられているレースのうち、
「馬の年齢と性別を基準に定められている」レースの事です。
(初心者や詳しくない人には、ちょっと難しいかも知れませんね。)
また、外国産馬は1984年から、外国馬は1993年から、地方競馬所属馬は1995年から、
それぞれ出走可能となり、1996年からは現在の条件、日程に変更され開催されてきました。
※「オークス」は「優駿牝馬」、「日本ダービー」は「東京優駿」が正式名称ですが、
ここではレース名(俗称)で記載していきますのでご了承ください。
ここで「外国産馬」と「外国馬」の違いを、簡単にですがおさらいしておきますが、
「外国産馬」とは「日本国外で生産された馬」で、
「外国馬」は「日本国外で生産され外国の厩舎に属する馬」の事です。
他にも細かい規定が有るのですが、今回は割愛させていただきます。
過去の安田記念優勝馬と騎手
注目の優勝馬をピックアップしました。
■第1回1951年:「イッセイ」栄えある第1回の優勝馬。同世代の著名な馬として「トキノミノル」という馬が。
知っている人はかなりの競馬通だと思います。騎手は故・保田隆芳(やすだたかよし)氏。※後述します。
■第2回1952年:「スウヰイスー」読み方は(すうぃいすー)と何と呼びにくい事でしょう。
■第3回1953年:「スウヰイスー」呼びにくいながらも牝馬ながら連覇し、前年クラシック2冠の女傑で、
馬主は女優の高峯三枝子氏でした。騎手は3年連続優勝の故・保田隆芳氏。
■第11回1961年:「ホマレボシ」この年の有馬記念も制し年度代表馬になりましたが、そのレースで引退しました。
騎手は故・八木沢勝美(やぎさわかつみ)氏。
■第35回1985年:「ニホンピロウイナー」1,600mのマイル戦以下は非情に強かった稀代のスペシャリスト。
1983年から3年連続で最優秀スプリンターを受賞した名馬です。騎手は河内洋(かわちひろし)氏。
■第40回1990年:「オグリキャップ」ご存じの方も多く、地方競馬から移籍した芦毛の国民的アイドルホースです。
ぬいぐるみ等のグッズは大人気で社会現象にもなり、競馬を知らない人も「オグリ」は知っているという人も居ました。
騎手は武豊(たけゆたか)氏。(天才と怪物のベストタッグとも言われていましたね)
■第42回1992年:「ヤマニンゼファー」第35回優勝馬の「ニホンピロウイナー」を父に持ち連覇しただけではなく、
■第43回1993年:「ヤマニンゼファ-」1993年に2,000mの天皇賞・秋も制しマイル戦以外でもG1制覇。
騎手は同一人物ではなく、42回が田中勝春(たなかかつはる)氏、43回が柴田善臣(しばたよしとみ)氏。
■第58回2008年:「ウオッカ」前年には牝馬として64年ぶり、戦後では初の「日本ダービー」を制覇したばかりか、
■第59回2009年:「ウオッカ」安田記念も連覇し、G1通算7勝を挙げ「史上最強牝馬」とも呼ばれました。
騎手はやはり同一人物ではなく、58回が岩田康誠(いわたやすなり)氏で、59回は武豊氏。
出ましたね、「オグリキャップ」の名前が。
個人的にはファンではありませんでしたが(オグリファンの皆様、怒らないでください)
ハイセイコーという馬以来の社会現象を起こし、第二次競馬ブームを作ったとも言われています。
若い女性ファンも多かったというのも特徴でしたね。
人気だけではなく実力も兼ね添え、マイル戦(短距離)に限らず、暮れの有馬記念2,500mも苦にせず2度制覇し、
短距離から長距離までこなす、オールラウンダーの正に怪物でした。
「芦毛の怪物」とか「オグリ」の愛称で多くのファンに愛された、永遠のアイドルホースとも言われました。
このレースの一つの特徴として「牝馬の活躍が多い」という事が挙げられます。
理由として、「牝馬は瞬発力に長けている」、「スピードが有り切れ味が鋭い」などで、
もう一つは「牡馬よりも負担重量が2kg軽い」と、いった点があると思われます。
やはり人間同様に馬でも体力的な男女差は有る様で、一緒に競技するとどうしても怯む事も有るそうです。
性格も牡馬よりデリケートな面も有り、急に走りたがらなくなる事もあるとの事です。
だから「牝馬限定レース」も有るのですね。納得しました。
因みに外国馬の優勝は2回有り、第50回と第56回で、いずれも香港所属の外国馬(共にせん馬)でした。
『革新騎手・保田隆芳物語(短編)』
ここで是非触れておかなければならないのが、騎手であり調教師でもあった「故・保田隆芳氏」です。
第1回の安田記念から3連覇した事も偉業ですが、遡る事15年前の1936年に16歳で騎手デビューし、
名門厩舎で腕を磨き、主戦ジョッキーとして頭角を現しました。
しかし1941年から約4年間の兵役もこなしていたのです。驚きですよね。
その後数々の今で言うG1を制し、1958年にアメリカ遠征を機に、騎手界に革命的とも言える事をもたらしました。
その時すでに40歳手前、今で言うアラフォー世代だったのです。
当時日本の騎手は、師匠と弟子の関係で師匠の真似をする騎乗姿が一般的で、保田氏も同じでしたが、
渡米後にアメリカの騎手の騎乗姿に感化され、その真似をしたのです。
それが今では当たり前の「モンキー乗り」と言われる騎乗法です。
何故その「モンキー乗り」を習得したかというと、馬に負担が少なく乗れるという利点があり、
それにより馬のパフォーマンスを上げる、果ては勝つ確立が高くなる、というものです。
ただ今までの騎乗スタイルとは比べものにならない位、騎手にとってはきつい姿勢でもありました。
その様な騎乗革命をもたらした事も凄いですが、競馬界にもアメリカでの先進的な考え等を持ち帰り、
名伯楽と言われた調教師から「10年日本競馬の発展が早くなった」と、言わせたそうです。
弟弟子からは「いくつ大きなレースを勝ったという事よりも、あの時代に何を考え何をしたのかという事だと思う」と、
保田氏の凄さを語っていました。
それだけ時代の先を見ていた思考だったのですね。
引退するまで、天皇賞を春秋合わせて10回の優勝と、「天皇賞男」「盾男」とも呼ばれた位でも有り、
前人未踏の1000勝を達成し、通算1295勝は当時の中央競馬記録でもありました。
現在、武豊氏が天才と呼ばれますが、この故・保田隆芳氏も間違い無く天才だと思いますよ。
その後の調教師としても、騎手時代同様活躍し、2009年に89歳でこの世を去りました。
「日本競馬界の至宝」「戦後競馬界を牽引した巨星」とも報じられ、後輩騎手からは、
「日本の近大競馬の礎を築いた方で、保田氏の活躍がなかったら今の日本競馬の繁栄は無かった。」と言われる位、
伝説を残した偉大なる騎手、調教師だったのです。
普段何気なく見ている競馬中継も、こういった事実を知っていると見方も変わり、
より深い思いを馳せながら馬を応援したり、競馬場に行こうという思いにもなるかも知れませんね。
「安田記念」というG1レースで、日本の近代競馬の礎や騎手の変革が判るとは驚きでも有りました。
今後も素晴らしいドラマを展開する事を期待したいと思います。
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